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2020.01.21

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立志社の町家に宿泊して楽しむ新選組の京都 Part15〈最終回〉

こんにちは、risshishaですsmiley

今週は冬にしては少し暖かい日もありましたね!
私は基本通勤以外フロントにいる側なのであまり日中の気温がわかりませんが、朝早くの通勤でも寒っっっ!って思う日がしばらくあったのにここ最近あ、そんなに寒くない…!って思うことが増えました。
あっという間に2月もすぐそこまで迫っていて本当に日が経つ早さが恐ろしいです。

ではでは、久々(約4か月振り)の企画に参りましょう!
…と言いたいところですが今回が最終回となりますcrying
(年内で終わらせるつもりだったのに、完全に失念しておりました…)

最終回は「新選組最後の洛中屋敷の碑」ですyes

正確な場所はわからないそうなので、「此付近」という形で示しているようです。

その碑の横に少し四角形のパネルがあるかと思いますが、そこには…



『当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。

中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。

幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。

が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。

同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されず早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。

が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

歴史地理史学者 中村武生』


 
と書いているようです。
また詳しくはこちらをご覧くださいませ。
http://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si067.html

住所:〒600-8234 京都府京都市下京区南不動堂町
https://www.google.com/maps/dir/京都府京都市下京区西酢屋町2 壬生宿 MIBU-JUKU 七条梅小路/34.9869076,135.7551448/@34.9880271,135.7463996,16z/data=!3m1!4b1!4m9!4m8!1m5!1m1!1s0x6001075ffcc83e67:0xeeacf3bf5e90bd26!2m2!1d135.7463282!2d34.9893456!1m0!3e2


これにて完結です!!!
ぜひ新選組に興味ある方もそうでない方も昔の風情を感じに京都、また当宿にお越しくださいませ。

ではでは…blush

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